ヤスイです。
ぼくは33歳で車いすフェンシングにチャレンジしたことがキッカケで世界選手権に出場しながら競技生活を約10年送ることができました。
2013年に東京パラリンピックが決定し、一時は練習を再開していましたが競技を継続する環境が整わないことから2017年京都大会の試合を最後に引退しました。
ですが、車いすフェンシングに出会ったことがさらにまた違う出会いにつながり挑戦で得たものは大きかったと思っています。
自分のこうした経験から興味を持ち未知なことに飛び込んでみる大切さが分かりました。
このページではぼくが車いすフェンシングに出会ったことで得られたつながりと学びを振り返りながらまとめてみます。
では先ず車いすフェンシングに出会ったキッカケから説明しておきます。
車いすフェンシングとの出会いが夢の実現に導く
ぼくは33歳の頃に運動不足と風邪予防を考えてプールで泳いでいたときにたまたまフェンシングと関わりのあった職員から練習への見学を薦められました。
このときは特別に何かに打ち込みたいと考えてはいませんでした。
しかし小学校の頃に剣道を1年ほど取り組んでいた経験もあり興味を持ったのは事実です。
それに過去車いすバスケに取り組んだもののすぐに辞めてしまってます。
こんな苦い経験でチームプレーや団体競技は向いてないと受けとめるようになり個人競技に興味を持ったのです。
誘いを受けた1週間後にぼくは練習を見学し、この日以降車いすフェンシングにのめり込み約10年間の競技生活を送ることになりました。
車いすフェンシングに出会ったことで夢を抱いていたオートバイレースの最高峰【ロードレース世界選手権GP500】への憧れを車いすフェンシング世界選手権出場で実現できました。
当時こんな些細なキッカケで人生が大きく変わることになるんだと思いました。
車いすフェンシングとの出会いで得られたもの
車いすフェンシングに挑戦し、競技生活を経験したことで得られた結果を書き出してみます。
- 世界選手権への出場の夢が叶う
- 人との出会い
- 講演活動に繋がる
ではひとつずつ解説します。
世界選手権への出場の夢が叶う
ぼくはオートバイ事故によるケガで脊髄を損傷し下半身不随の身体になりました。
バイクに乗っていた当時は86年のオートバイブームでバイク乗りを【ローリング族】とか【走り屋】と呼ぶ時代でした。
このころ爆発的に人気のあったバイク漫画が【バリバリ伝説】です。
この当時ぼくは17歳でロードレース世界GP500で活躍するレーシングライダーの存在が自分にとってのアイドルでありヒーローでした。
ぼくは芸能界で活躍する女の子アイドルには全く興味を持たずにレースに出場するフレディスペンサーやケニーロバーツ、バリーシーンなどの影響を受けていました。
なかでも日本人ライダーの【片山敬済】選手はぼくにとって憧れの存在です。
片山氏が主演のドキュメンタリー映画【蘇るヒーロー片山敬済】はぼくのバイブルとなっています。
それほどロードレースに興味が傾倒していた17歳当時のぼくに夢は世界選手権レースだったのです。
片山氏が出演する映画のなかでレースに挑むワンシーンを切り取った場面にヘルメットとユニフォームのチェックを受けレース場へ入るところが映像で描かれていました。
この映像が車いす人生となってもずっと自分の脳裏に焼き付いていました。
脊損のケガから16年後に思ってもみなかった出会いが車いすフェンシングでした。
初めて出場した世界選手権は2002年のハンガリーで開催された車いすフェンシングワールドカップです。
この試合会場でぼく自身の体験と片山氏を映し出した映画のワンシーンが重なり身震いした覚えがあります。
残念ながら試合成績では満足な結果を残すことは出来ませんでした。
ですがチャレンジしたことで得られた経験はかけがえのないものとなりました。
人との出会い
競技を始めてから数年後に協会が規模を縮小することになり練習が成立しない事態になりました。
このときぼくに与えられた試練は自分で練習環境を整えることでした。
そこで知り合いを頼って健常者のフェンシングクラブへ練習への参加を相談することにしました。
ぼくが置かれている状況と組織に現状を伝えクラブへの参加を心よく了承してもらえました。
このクラブの練習に参加したことで練習に協力してくれる人との出会いにつながりました。
フェンシングに出会ったことは結局のところ人との出会いだったと思います。
練習に協力してくれる友人との出会いや試合会場で対戦した相手が友人の付き合いにも発展します。
取り上げたらキリがないほどです。
そんな沢山の人との出会いのなかでぼくはある運命的な人と出会います。
車いすフェンシングの試合が海外遠征となるのでぼくは意を決して英会話教室に通うことにしました。
英会話教室で出会ったのがいまのお嫁さんです。
人生って不思議なもんですね。
講演活動のきっかけ
車いすフェンシングに本格的に取り組むようになってから学校講演の依頼が入るようになりました。
脊髄損傷の障害を持つぼくは車いすが無ければ生活が成り立たない毎日を送っています。
そんな障害のバックボーンに加えてパラリンピック競技に挑戦するアスリートの視点が加わった講演が可能となっています。
>>【講演レポート】城陽市立古川小学校での障害者理解教育授業の内容と評価
パラリンピック競技の出会いが講演スキルを磨く出会いにもなりました。
こんな感じでいろいろな出会いにつながったことがお分かりいただけたと思います。
では競技との出会いがもたらした学びと気づきをまとめてみたいと思います。
まとめ!車いすフェンシングとの出会いで学んだ気づき
競技での出会いと経験からぼくは学びを得ることができました。
個人的な見解ですがぼくは自分の体験から次のような学びを定義しました。
- 前向きな気持ちがあれば周囲は協力してくれる
- 協力を得るためには関係づくりと自分の姿勢が大切
- 想いを持ち続ける気持ちが出会いを引き寄せる
バイク事故で障害を持つことになったぼくに人生は入院生活で絶望から始まりました。
しかし障害者になっても心さえ開けば色々な出会いがあることがわかります。
ぼくは下半身不随の身体を悲観したままずっと人生を過ごしていたらパラリンピック競技への出会いも世界選手権に出場するチャンスも得られなかったと考えています。
車いすの人生を生きることになった出来事は確かに不幸な側面を持っています。
でも車いすの障害者になってからぼくが出会った人たちはきっとぼくの中の不幸を見出してなかったと思うのです。
その代表者がいまのぼくのお嫁さんだと思っています。
面と向かって問いかけたことはありませんが彼女がもしぼくが車いす人生になったことをネガティブに受け止めていたらきっと出会っていないです。
もし仮に出会っていたとしてもきっと見向きもされてなかったでしょう。
別にぼくが特別だったと言いたいワケではないのです。
どんな人にもアクシデントは訪れます。
その時に自分の置かれた環境と起こった出来事をどう受け止めるかで人生の方向が変わってくるのでは?というのがぼくの経験から得られた答えです。
こんなぼくの経験を講演でお伝えしています。
講演でお伝えできる内容や安井の詳しい経歴は下記のページでまとめています。
>>安井の経歴
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