こんにちは。
オートバイ事故で脊髄を損傷し車いすの生活を送っています。
車いす人生は2020年の現在で34年目を迎えました。
このページではプロフィールとしてぼくの生い立ちと脊髄損傷の人生で経験してきたこと、ブログで取り上げる内容などを紹介しておきます。
ではよろしくお願いいたします。
プロフィール
- 京都府出身の1968年生まれ
- 男性 A型
- 最終学歴は中卒(バイク事故で定時制高校を中退)
この後からはぼくの生い立ちと経験をまとめています。
小学校時代での衝撃的な経験
京都市で生まれ小学校4年に伏見という場所に引っ越しました。
人生の大半を伏見で過ごしました。
伏見に越してきてすぐに熱中したのは近所を流れる宇治川での魚釣りです。
毎日学校が終わると、友達と宇治川へでかけ魚釣りをしながら良い子は興味を持たない遊びばかりしていました。
伏見に引っ越してきて間もない9月に事件が起きました。
近所の人達とお月見の夜を楽しんでいる最中に父親は一人でお散歩に出かけヘッドが少しイッっちゃてる酔っ払いおじさんに刺されてしまいました。
事故の直後の現場を小4だった自分が発見してしまいました。
幸い急所は外れていて父親は手術で一命を取り留めました。
お腹をナイフで刺された父親を発見してしまったぼくは次の日から朝ごはんを食べた後、吐いてしまう症状が表れ学校どころではなくなりました。
母親は手術のあと病院で泊まり込むことになりぼくと妹は容態が落ち着くまで児童保護施設に入れられました。
児童保護施設ではおねしょをした思い出が残っています。
中学生で音楽とオートバイに出会う
中2のころにレコードプレーヤーを買うため皿洗いのアルバイトを始めました。
ダブルデッキとラジオが付いたモジュラーステレオと呼ばれるレコードプレーヤーを三万円ぐらいで購入します。
80年代を過ぎたあたりからレンタルレコードが登場し始めてからはこのモジュラーステレオでたくさんのカセットを録音して楽しみました。
いま思い返すとかなりチャチな造りでしたがラジカセとこのプレーヤーに搭載されたダブルデッキを駆使して多重録音にも挑戦しました。
この安物プレーヤーがガジェットや音楽機器に興味を持つぼくの原点です。
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音楽の興味はエレキギターにつながり音楽仲間との出会いがキッカケでライブハウスでの演奏も経験しました。
オートバイに出会う
中1だった1980年当時の少年ジャンプに連載されていたバイク漫画【街道レーサーGo!】に登場したヤマハRZ250の存在を知りオートバイに興味を持ち始めます。
そんなタイミングで親戚のお兄さんが発売されたばかりのヤマハのスクーター【サリアン】に乗って遊びにきました。
お兄さんは乗ってきたサリアンを指して「乗ってもいいよ」と中1のぼくに優しく語りかけます。
あとはご想像にお任せします。
オートバイの魅力に取りつかれたぼくはタミヤのプラモデルでいろいろなバイクを作りました。
ケニーロバーツのYZR500やバリーシーンのRGB500、ホンダのCB750Fはモリワキの集合管をイメージしてカスタムしました。
もちろんヤマハのRZ350も作った思い出があります。
ちなみに80年代の中ごろまで原チャリはノーヘルで運転が許されていました。
こん感じでバイク漫画とサリアンとの出会いがあり、この出来事からぼくの人生はオートバイをベースにした生き方を進むことになります。
中卒で就職
レコードプレーヤーを買うために勉強そっちのけで皿洗いと楽しい遊びに時間を傾けていたぼくは高校には進学しない決心を固めていました。
中学を卒業して金型工場に就職したぼくですが、2年ほど働いた後に定時制高校へ入学しなおしました。
定時制にいくことになった理由は薄暗い鉄工所で働いているうちに将来に不安を感じるようになったからです。
そんな悶々とした不安を抱えていたタイミングで定時制高校に通う友達から受験を勧められます。
ぼくはこの誘いをキッカケに鉄工所をスッパリと辞めてアルバイトしながら勉強することにしました。
決心すると人間は嫌いだった勉強にも努力できるもんですね。
無事受験にも合格し定時制高校に入学したぼくは約2ヶ月の間スクールライフを楽しみました。
オートバイ事故に遭う
定時制高校入学後オートバイレースに憧れていたぼくはヤマハRZ250Rを購入します。
バイトが休みの日に初めて走りに行った峠道で転倒し脊髄を損傷し障害者としての人生がスタートしました。
脊髄の7・8番を圧迫骨折したダメージは酷く神経も損傷してしまいます。
このために両足は動かなくなり下半身不随の障害を負うことになりました。
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運びこまれた病院で1年半入院し褥瘡の手術と基本的なリハビリを受けることになります。
ちなみに入院当初はバイクのことばかり考えていました。
サイドカーなら車いすでも工夫すれば運転できるのではないか?とかそんなことばかりです。
この時はただの空想でしかありません。
しかし思いはムダでは無かったとおよそ10年後に知ることになります。
社会復帰訓練
1年半の入院のあと社会復帰を目的とした訓練施設に入所しました。
脊髄損傷としてのリハビリは入院していた病院でほとんどマスターしていました。
しかし単純にリハビリを終えても仕事を持ち社会復帰する環境が整ってなければ退院しても意味はありません。
そこで本格的な社会復帰への手立てをこの入所施設で探って行こうという作戦です。
この入所施設で社会復帰への方法を模索した結果、職業訓練を受けながら通勤に必要な自動車免許を取ることができるという理由で愛知県の職業訓練校に入ることになりました。
こうしてぼくは社会復帰に3年の期間を費やしたのでした。
社会復帰とサイドカーに挑戦
就職した職場は京都の老舗電気機器メーカーの生産を担う工場です。
この職場でぼくは生産管理と改善業務を担当しました。
改善業務の中では旋盤やフライス、ボール盤を使って加工することもあり鉄工所で働いた経験を活かすことになりました。
改善業務と金属加工の経験がサイドカーにチャレンジすることに大いに役立つことになります。
オートバイへの夢を叶えた
この職場に就職して4年ほど経った頃、入院中に構想を立てていたサイドカーへの挑戦プランを実行に移すことにしました。
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警察当局への説得と免許条件の手続きと陸運局(運輸支局)での認可を受けた改造を施し、サイドカー付オートバイに乗る夢を実現しました。
サイドカーの購入は雑誌の個人売買から探しだしました。
もちろん最初は新車での購入も検討しましたがお金がなかったぼくはベース車両が250ccでもおよそ250万~300万は必要と専門店で聞き断念しました。
そこでオートバイ雑誌の売買コーナーから中古のエリミネーター250サイドカー付車両の出品を発見しました。
出品されていた宮崎県の個人バイク屋さんに問い合わせて両足が動かないこと、ギヤを操作する手動装置の製作が必要なことを相談しました。
ラッキーだったのは問い合わせたこのお店【甲斐モータース】さんが単純にオートバイを売っているだけでなくサイドカーの製作を個人でされているお店だったのです。
つまり溶接や加工などに対応できるのです。
もしフツーのバイク屋さんだったらサイドカーを手に入れることが出来ても手動装置の製作は難攻したと思われます。
車いすの状態でオートバイに乗りたいと訴えた気持ちを甲斐さんに汲み取ってもらえ商談は成立しました。
加工もできるフットワークの軽い個人経営のオートバイ屋さんだったこともあり大がかりな加工も含め全てお任せすることが出来ました。
このお店との出会いがありオートバイを手にれたあとぼくは甲斐さんに招かれ単独のフェリー旅で宮崎県へのツーリングも経験しました。
【関連記事】【ツーリング体験記】車いすユーザーがサイドカー付オートバイで単独フェリー旅を実現した方法
甲斐さんからはサイドカーに乗るなら、ある程度は自分でメンテができた方が良いと教えられました。
下半身の感覚がないぼくはエンジンからの熱の火傷とお尻の褥瘡に注意が必要です。
この問題を解消するためにシートや部品を自分で製作しカスタマイズしました。
鉄工所の機械加工と職場での改善業務が役立ったと思います。
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パラリンピック競技との出会い
その後ふとした偶然からパラリンピック競技に出会い、健常者のころオートバイレースの世界GPに夢憧れていた世界に挑戦する機会に恵まれます。
ぼくが出会った競技は車いすフェンシングです。
2010年中国で開催の広州アジアパラリンピックにも出場し約10年間の競技生活を送りました。
オートバイで抱いていた世界選手権レースへの憧れが車いすフェンシングに出会ったことで世界につながります。
そして車いすフェンシングに出会ったことが講演活動やいろいろな経験と出逢いにつながっています。
自家焙煎珈琲の移動カフェの開業
22年間勤めた職場を41歳で退職したぼくはお店を開業することにしました。
職場を辞めることを決めた理由はカフェを始めたかったからです。
ライブハウスで演奏したときに人に喜んでもらうような仕事に関わりたいと考えるようになりました。
脊髄損傷の身体ですし、そんなに長生きできないと覚悟もしています。
高齢になるほど動き出すチャンスは減っていくと思い41歳で職場を退職し自家焙煎コーヒーの移動カフェを開業しました。
【関連記事】会社員を退職して自家焙煎珈琲の移動カフェを始めるまでの葛藤と経緯
二度目の結婚と柴犬
いつの間にか二度目のお嫁さんを迎えることになりました。
お嫁さんになる女性とは英会話教室で出会いました。
英会話のレッスンを受けようとした理由は車いすフェンシングの海外遠征で英語を役立てたいと考えたからです。
試合のなかで審判のジャッジに物申したい場合でも英語が話せるのとそうでないのでは気持ちが変わります。
そんなことを考えて英語教室に行ったワケですが結局、語学力は手に入れることなく伴侶を手に入れたワケです。
柴犬を飼う
結婚して数年経ったころに柴犬を飼い始めました。
お嫁さんがかねてより柴犬を飼いたいと仰せられており、子なし夫婦でもあるので大阪から飼い主さんを亡くされたわんちゃんを里親として迎えました。
迎えた柴犬は当時3歳で女の子です。
2020年現在では無事に10歳を迎え、家のなかは彼女の独裁政治の体制を成し遂げています。
焙煎機の盗難と廃業
移動カフェを細々と続けていましたが突然のコーヒー豆焙煎機の盗難でお店を廃業しました。
焙煎機を再度買い求める経済的体力もなく、移動カフェを辞めることにしました。
問題は収入と仕事です。
しかし車いすフェンシングの経験がここでも役立ちます。
練習とトレーニングで知り合った人から仕事の紹介を受けて経済的なピンチを切り抜けます。
ワードプレスでウエブサイトを開設
知人の紹介で得たアルバイトの仕事ですが、残念ながらやり甲斐は感じません。
このままやりたいことも見つけられず年を取り体力を失い、死んでいくだけかと思うと怖くなります。
そこで34年間の脊髄損傷の人生で経験した出来事と情報がもしかしたら人様にとって役立つ内容となるのではと考えました。
そんな気持ちで開設し始めたのがいま閲覧してもらっているウェブサイトです。
もちろん開設した理由はそんなご立派な意図だけではありません。
アルバイト生活の苦しい経済的な問題を解消するために少しでも収入になればと考えたところもあります。
そんな背景もあり記事によってはゴリゴリに商品を紹介するようなページがあります。
興味があり購入したガジェットも紹介しています。
記事のまとめ方の要領が得られず、何が言いたいのか良くわからないページも多く存在します。
もはや人間辞めますか?というくらいです。
削除した方が良いのですが、それも面倒なので放置しています。
今後は有益な内容と読者さんの信頼を得ることを第一と考えた記事作りに時間をかけていきたいと考えています。
もし運営者に信頼をおけるようでしたらぜひこのページから商品を買ってください。
得られた収益はお犬さまのオヤツ代に充てたいと思います。
どうかよろしくお願いいたします。
【全力脊損】で取り上げるテーマ
このブログは2016年9月に開設しました。
2020年現在のサイトタイトルは【全力脊損】としています。
【全力脊損】に込めた意味としてはぼくが脊髄損傷の人生で全力で取り組んできたこと、あるいはそんなに全力でなかったことも含めて経験したことを取り上げようと考えたからです。
つまりこのブログにぼくの人生のすべてを投入しようと思いました。
2020年4月の時点ではまだまだ展開しきれていませんが、明確なテーマが得られたと感じています。
しかしこのタイトルがまたいつ変わるのか予断は許さない状況です。
以前にサイトタイトルを変更したときに投稿した記事はこちら↓↓↓
【関連記事】【Wheel work】サイトタイトル変更と今後のブログ運営方針について
頻繁にサイトタイトルを変えてしまう理由は「しっくりこない」からです。
ですからイマイチしっくりこないなーと感じたら【全力脊損】のタイトルが変わってしまう可能性は大です。
申し訳ございません。
そしてこのウェブサイトは基本的にははごちゃ混ぜテーマの雑記ブログです。
メインとする内容はぼく自身が車いすの人生で経験した出来事をヒントとして役立つ内容にしたいと考えています。
ぼくの脊髄損傷の人生で出会ってきた音楽とオートバイ、車いすフェンシングなどのテーマを有益な情報としてこのウェブサイト上で紹介できればと主考えています。
質問や疑問があればお気軽にコメント欄からメッセージをお届けください。
お答えできる内容なら対応させていただきます。
では何とぞよろしくお願い致します。
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