オートバイの転倒事故で背骨を骨折!?不安だらけの脊損人生がスタートした頃の心境と今

【更新情報】この記事は2019年7月に更新しています。

いまからおよそ30年前にぼくはオートバイの事故により脊髄損傷(せきそん)の身体になりました。

当時を振り返り車いすの人生が始まるときに抱えた不安と30年が経過したいまの心境をまとめてみたいと思います。

オートバイの事故で脊損になる

それは80年代のバイクブーム真っ只中、ちょうどフレディースペンサーが世界タイトルを獲得した翌年の1986年6月のある日。

ヤマハRZ250Rで滋賀県のカーブの多い峠道「花折峠」を走行中カーブで転倒し事故を起こしました。

その事故で背骨を骨折し、脊髄を通る神経を損傷したことから身体障害者としての人生がスタートしました。

入院した当初は骨折ならすぐに治って、また退院したすぐにバイクに乗れるだろうと楽観的に考えていた17歳のバカなぼくでした。

入院から3ヶ月ほど経ったある日、担当の医師から神経が伸びてこなければ両足の感覚は戻ることはなく立つことは出来ないと説明を受けました。

同じように脊髄を損傷しても神経が伸びて回復する事例もあるとの説明も聞きもしかしたらと希望を持っていました。

その判断の基準は事故から6ヶ月という期間です。

しかし残念ながら半年が経過しても神経が伸びてくることは無く、下半身不随の人生を送り30年以上が経ちました。

でも神経が回復しないのは当然のことだと今なら理解できます。

なぜなら僕が背骨を骨折している状態は単純にポキンと折れているのではありません。

骨同士が潰し合うようにグチャっと潰れて折れているので完ぺきに神経の通り道である脊髄を損傷しているからです。

だから担当の先生が説明してくれた内容は17歳のぼくの心理的ショックを気遣ってくれた優しさなのでした。

もし骨同士が潰し合う圧迫骨折でなければ先生の言うような奇跡が起きたのかもしれないですし、事例として実際に存在したのだと思います。

入院中エピソード

不思議なことに自由に歩いたり走ったり、自分の足と身体が機能しなくなったことよりも大好きだったオートバイに乗れなくなったことがなにより悲しく傷ついたことでした。

それはもう絶望と言っても良いくらいのショックです。(当時はほんとにそうだった)

そんな入院中のエピソードをひとつご紹介します。

骨折した背骨がくっつくまで1ヶ月ぐらいベッドで寝たきりで過ごしていた僕に看護婦さん(当時はキレイなおねいさんばかりで超嬉しかった)が問いかけました。

「いま一番なにがしたい?」と。

このように聞かれてぼくは即答で「バイクに乗りたい」と答えてしまい、その看護婦さんはきっと「しまった・・・」と思ったに違いありません。

それほどまでにオートバイが好きで半身不随という怪我をしていてもバイクに乗りたかった自分は入院中のヒマつぶしにヘルメットのデザインを考えていたりしました。

さらにさらに、当時入院していた大津日赤の整形外科病棟の通称「3西」と呼ばれる病棟にはぼくのようなバイクで事故した若い同年代のクソガキが何人か入院していました。

で、ヒマだしみんなオートバイ好き同士で入院中に仲良くなりました。

友達になったひとりが退院し、まだ入院中だったぼくの部屋にオートバイに乗って遊びに来てくれたのです。

その時に乗ってきたバイクがぼくが乗っていたヤマハRZにTZRのフロントフォークを移植した車両だったことは今でも鮮明に覚えています。

彼は僕に楽しんでもらいたくてバイクを見せてあげるよと病院の玄関前でRZを走らせてくれました。

五体満足で自分が乗っているハズだったヤマハRZと彼の姿を眺める僕の眼と表情はきっと暗く引きつっていたに違いありません。

そして居心地の悪い僕は足早に(歩くわけでもないが)病室へと引き上げ、当時想いを寄せていた看護婦さんの前で号泣していたのは言うまでもありません。

入院中の処置とリハビリの内容

現代のスピード医療環境にくらべてゆったりしていた昭和60年代にぼくは整形外科病棟に1年半の期間、入院していました。

いまでは考えられませんね。

さて、救急病院へ搬送されたあとのぼくはベッドで約1ヶ月間安静状態で砕けた背骨がくっつくのを待っている間におしりに褥瘡ができてしまっていました。

現在ではおそらく、医療とケアの問題として認識されているようですが当時はそんな意識は現場や世論にはありませんでした。

このときに出来てしまった褥瘡があとあとぼくを苦しめることになるのでした。

無事に背骨がしっかりしてくると本格的な処置やリハビリがスタートします。

うろ覚えですが安静からその後の流れをざっくりまとめておきます。

背骨の骨折箇所が安定したあとの流れ
  • 背中全体をがっちがちに固定するコルセットの製作
  • リハビリの開始→まずは起立台に乗り貧血の克服
  • コルセット完成のタイミングで車イス移動のスタート
  • 車イスの操作や筋トレなど本格的リハビリの開始
  • とこのような流れでした。

    ちなみにぼくは折れた背骨を金具で固定する手術(オペ)は受けていませんので、日にち薬的な経過で骨が安定したあとはリハビリがほぼメインの日課となりました。

    リハビリ以外の処置としては褥瘡ができてしまっていたので、その処置がまず中心です。

    車イスに乗ってリハビリを受けるようになると寝たきりの状態で付けられていた導尿のバルーンカテーテルは卒業し、同時に自分で排尿する自己排尿がスタートします。

    バルーンカテーテルを外した初期のころは膀胱洗浄の処置もありましたが、この処置のあとはなぜか失禁が多いことがあり、想いを寄せていた超かわいい看護婦さんに訴えるとめでたく膀胱洗浄は中止になりました。

    ◇リハビリメインの日課と悲観の日々

    入院して半年ほど経過すると処置らしいことはほとんどなくなり、リハビリが中心の毎日になっていきました。

    絶対安静のときは、とにかくベッドのうえで寝てるだけですし状況もまだ良く掴めていないので深刻な不安や悩みはまだそれほど考えません。

    けれどリハビリが始まり、ある程度自由に車イスで病院内で行動できるようになると情報も入ってきて余計な思考に襲われます。

    同じ病棟内で入院している患者同士の会話で自分の障害のことを説明する場面もありますし、脊髄損傷の人間として生きていくための訓練(リハビリ)を受けていくなかでこの現実を受け止めきれない意識を持ちます。

    このまま下半身不随の身体で生きていくことになるのか・・・

    頭では分かっていても、現実を受け入れることができない時期が確かにありました。

    平日は処置や1日に2回のリハビリ訓練の日課もあり、それなりに朝から夕方までざわざわする時間を送りますが、問題は日曜や祝日です。

    土日は処置も、リハビリもありませんので土曜の午後から月曜の朝までやることがありません。

    車イスを自分でこいでリハビリ室へ自由に行けるようになった状態ではもうベッドの上でずっと寝ていると考えなくても良いことばかり頭によぎります。

    自由な時間が身体障害者になってしまった将来を悲観させはじめました。

    悲観していても何にも変わらないしクヨクヨしても仕方がないのですが、この身体と一生付き合っていくと気持ちが決まるまでは出来なくなったことばかり考えていました。

    17歳の脊髄損傷デビューで感じた将来の不安と30年後の今

    事故から30年あまりが経ち、失ったモノと得られたもの色々と有りました。

    けれど入院当時に漠然と抱えていた不安と将来への恐怖は、今思い返すとほとんど取り越し苦労な事ばかりでした。

    というワケで脊髄損傷の障害者となってから社会復帰を果たして数年間に感じていた将来への不安を振り返ってみたいと思います。

    彼女ができないかも?


    結果

    松方弘樹さんのような何百人斬り!?なんて武勇伝をお持ちになる人の足元にも到底及びませんが数人の女人さまと幸せな時間を過ごさせていただきました。

    これまでお世話いただいた女性の方々にはお礼の言葉もありません。

    感謝しています。

    結婚できないかも?


    結果

    おかげさまで二度目の結婚を経験させていただき現在進行中でございます。

    今の奥方さまには感謝の言葉もありません。

    オートバイにはもう乗れない?


    結果

    サイドカーではありますが、オートバイに乗り楽しんでいます。

    【関連記事】初めての250CCサイドカー!購入先とコーナリング方法

    フェリーに乗ってツーリングにも出かけました。

    一度目はオートバイを制作してもらった宮崎県都城市の甲斐モータースの甲斐さんに合うため九州指宿をツーリングしました。

    二度目のフェリーは高知県に済む友達に会うためにフェリーに乗りました。

    まとめ

    脊髄損傷の身体になってしまって何にもできないのか?そんな気持ちにかられた障害者になったばかりの僕はもう脊損の身体で30年を生きることができました。

    この間に働く仕事を得て社会復帰できたことはもちろん、自動車を運転して旅行に出かけたりスポーツや音楽演奏など人並みに人生を楽しめたと思ってます。

    思い返してみると障害者になって間もない頃は障害者としてみられる姿が本当に嫌で受け入れるのが出来なかったときが一番苦しかったような気がします。

    逆に言えば自分の人生を受け入れてしまえばむしろチャレンジできることの方が多いですしやる気もみなぎってきます。

    その気になれば色々とできることはたくさんあります。

    辛いこともありますが、楽しいことだってあります。

    もし、ただいまこの記事をお読みで深い淵に沈んでおられる方がどんな状況かは分かりませんが人生を楽しむことは十分に可能です。

    どうか悲観なさらずに過ごしていただけたらと思います。

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    2 件のコメント

  • 2018年7月上旬、友人がツーリング中に転倒してしまい、現在、脊損による障害を乗り越えるべくリハビリテーションにて日々リハビリに励んでいます。入院中の彼に何かしてあげられることは何か無いか、と考え調べていたところazuhikoさんの記事に辿り着きました。
    友人は27歳で”まだまだこれからなのにこの先どうなるんだろう”と、本人はもちろん、私もかなり不安でした。そんな時に17歳で事故をされ、30年間様々な経験をされていらっしゃるazuhikoさんのお話を読み、少し気持ちが楽になりました。(怪我した本人ではありませんが、、)
    今はまだ現実を受け止めようとしている真っ只中にいることと思います。無理に色々と興味を持たせようとしたり、勧めたりするつもりはありませんが、日々状況は変化し、良くなっているようです。落ち着いてきたらazuhikoさんのお話をしたいな、と思います。

    • はじまして。

      管理人のazuhikoと申します。

      このたびはコメントと記事をお読みいただきありがとうございます。

      脊髄損傷の怪我を負ってしまわれたご友人を
      お気遣いするゆりなさまのお気持ちお察しします。

      また怪我されたご友人さまも大変な時だと思います。

      オートバイで事故されたとの事で自分の事のように感じてしまいます。

      ゆりなさまが仰るように、いまは時間が必要な時だと思います。

      擦り傷でも突然治ることがないように
      心の持ち方が変わり、状況を受け止めていくにも時間がかかるものです。

      でも、気持ちが切り替わってしまえば
      それほど苦ではないことも確かです。

      と、偉そうに言うぼくがじゃあ100パー吹っ切れているのかと言うと自信はありません。

      でも死にたいのかと言うとイヤですし生きていたいです。

      チャーシュー麺が食いたいけどラーメン並でそこそこ満足してる感じですかね?

      本当なら歩いて移動したいけど、車イスを使えば何ら変わらずに移動できるし、まあええかと。

      そんな感じで生きています。

      大変なことも確かにございますが、気持ちが出来上がってしまえば徐々に環境(障害に)に対応できるようになるのも時間の問題です。

      どうか悲観なさらずに、ご自分と将来を信じて頂きたいと思います。

      取り留めない内容のブログで恥ずかいかぎりですが、少しでもお役に立てたのであれば嬉しく思います。

      お忙しいところコメントを寄せて頂きありがとうございました。

      もし、何か障害のことで気がかりな事があれば尋ねてきて下さい。

      ご友人さまの快復を願っています。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    オートバイ事故で脊髄損傷の障害を負うことになり車いす生活を送っています。 車いすの生活は2020年現在で34年目を迎えました。 このブログはぼくの車いす人生のなかで全力で取り組んできた経験や出来事をまとめています。 どうぞよろしくお願いいたします。 プロフィールページで触れていますがぼくはギターや音楽にも長年親しんできました。 ゴリゴリの昭和世代のためにいまでもレコードプレーヤーで音楽を聴いていますが音楽関連のガジェットにも興味があり気にいったアイテムをブログでレビューしています。 30年間の脊損人生でチャレンジしてきたことをこのブログでお伝えできればと思っています。 >>>プロフィールはこちら