オートバイの転倒で骨折してしまったのは脊髄だった!17歳の苦悩と30年後の心境と結果

いまからおよそ30年前の出来事です(この記事は2018年9月に更新しています)。

それは80年代のバイクブーム真っ只中、ちょうどフレディースペンサーが世界タイトルを獲得した翌年の1986年6月のある日。

ヤマハRZ250Rで滋賀県のカーブの多い峠道「花折峠」を走行中カーブで転倒し事故を起こしました。

その事故で背骨を骨折し、脊髄を通る神経を損傷したことから身体障害者としての人生がスタートしました。

事故から30年あまりが経ち、失ったモノと得られたもの色々と有りました。

けれど入院当時に漠然と抱えていた不安と将来への恐怖は、今思い返すとほとんど取り越し苦労な事ばかりでした。

というワケで脊髄損傷の障害者となってから社会復帰を果たして数年間に感じていた将来への不安を振り返ってみたいと思います。

ただの骨折なんて思うと大間違い!実は下半身不随の大怪我だった!

入院した当初は骨折ならすぐに治って、また退院したすぐにバイクに乗れるだろうと楽観的に考えていた17歳の大バカなぼくでした。

入院から3ヶ月ほど経ったある日、担当の医師から神経が伸びてこなければ両足の感覚は戻ることはなく立つことは出来ないと説明を受けました。

同じように脊髄を損傷しても神経が伸びて回復する事例もあるとの説明も聞きもしかしたらと希望を持っていました。

その判断の基準は事故から6ヶ月という期間です。

しかし残念ながら半年が経過しても神経が伸びてくることは無く、下半身不随の人生を送り30年以上が経ちました。

でも神経が回復しないのは当然のことだと今なら理解できます。

なぜなら僕が背骨を骨折している状態は単純にポキンと折れているのではありません。

骨同士が潰し合うようにグチャっと潰れて折れているので完ぺきに神経の通り道である脊髄を損傷しているからです。

だから担当の先生が説明してくれた内容は17歳のぼくの心理的ショックを気遣ってくれた優しさなのでした。

もし骨同士が潰し合う圧迫骨折でなければ先生の言うような奇跡が起きたのかもしれないですし、事例として実際に存在したのだと思います。

当時17歳で脊髄損傷になったぼくの入院中エピソード

不思議なことに自由に歩いたり走ったり、自分の足と身体が機能しなくなったことよりも大好きだったオートバイに乗れなくなったことがなにより悲しく傷ついたことでした。

それはもう絶望と言っても良いくらいのショックです。(当時はほんとにそうだった)

そんな入院中のエピソードをひとつご紹介します。

骨折した背骨がくっつくまで1ヶ月ぐらいベッドで寝たきりで過ごしていた僕に看護婦さん(当時はキレイなおねいさんばかりで超嬉しかった)が問いかけました。

「いま一番なにがしたい?」と。

このように聞かれてぼくは即答で「バイクに乗りたい」と答えてしまい、その看護婦さんはきっと「しまった・・・」と思ったに違いありません。

それほどまでにオートバイが好きで半身不随という怪我をしていてもバイクに乗りたかった自分は入院中のヒマつぶしにヘルメットのデザインを考えていたりしました。

さらにさらに、当時入院していた大津日赤の整形外科病棟の通称「3西」と呼ばれる病棟にはぼくのようなバイクで事故した若い同年代のクソガキが何人か入院していました。

で、ヒマだしみんなバカだからオートバイ好き同士で入院中に仲良くなりました。

友達になったひとりが退院し、まだ入院中だったぼくの部屋にオートバイに乗って遊びに来てくれたのです。

その時に乗ってきたバイクがぼくが乗っていたヤマハRZにTZRのフロントフォークを移植した車両だったことは今でも鮮明に覚えています。

彼は僕に楽しんでもらいたくてバイクを見せてあげるよと病院の玄関前でRZを走らせてくれました。

五体満足で自分が乗っているハズだったヤマハRZと彼の姿を眺める僕の眼と表情はきっと暗く引きつっていたに違いありません。

そして居心地の悪い僕は足早に(歩くわけでもないが)病室へと引き上げ、当時想いを寄せていた看護婦さんの前で号泣していたのは言うまでもありません。

入院中の処置とリハビリの内容

現代のスピード医療環境にくらべてゆったりしていた昭和60年代にぼくは整形外科病棟に1年半の期間、入院していました。

いまでは考えられませんね。

さて、救急病院へ搬送されたあとのぼくはベッドで約1ヶ月間安静状態で砕けた背骨がくっつくのを待っている間におしりに褥瘡ができてしまっていました。

現在ではおそらく、医療とケアの問題として認識されているようですが当時はそんな意識は現場や世論にはありませんでした。

このときに出来てしまった褥瘡があとあとぼくを苦しめることになるのでした。

無事に背骨がしっかりしてくると本格的な処置やリハビリがスタートします。

うろ覚えですが安静からその後の流れをざっくりまとめておきます。

背骨の骨折箇所が安定したあとの流れ
  • 背中全体をがっちがちに固定するコルセットの製作
  • リハビリの開始→まずは起立台に乗り貧血の克服
  • コルセット完成のタイミングで車イス移動のスタート
  • 車イスの操作や筋トレなど本格的リハビリの開始
  • とこのような流れでした。

    ちなみにぼくは折れた背骨を金具で固定する手術(オペ)は受けていませんので、日にち薬的な経過で骨が安定したあとはリハビリがほぼメインの日課となりました。

    リハビリ以外の処置としては褥瘡ができてしまっていたので、その処置がまず中心です。

    車イスに乗ってリハビリを受けるようになると寝たきりの状態で付けられていた導尿のバルーンカテーテルは卒業し、同時に自分で排尿する自己排尿がスタートします。

    バルーンカテーテルを外した初期のころは膀胱洗浄の処置もありましたが、この処置のあとはなぜか失禁が多いことがあり、想いを寄せていた超かわいい看護婦さんに訴えるとめでたく膀胱洗浄は中止になりました。

    リハビリメインの日課と悲観の日々

    入院して半年ほど経過すると処置らしいことはほとんどなくなり、リハビリが中心の毎日になっていきました。

    絶対安静のときは、とにかくベッドのうえで寝てるだけですし状況もまだ良く掴めていないので深刻な不安や悩みはまだそれほど考えません。

    けれどリハビリが始まり、ある程度自由に車イスで病院内で行動できるようになると情報も入ってきて余計な思考に襲われます。

    同じ病棟内で入院している患者同士の会話で自分の障害のことを説明する場面もありますし、脊髄損傷の人間として生きていくための訓練(リハビリ)を受けていくなかでこの現実を受け止めきれない意識を持ちます。

    このまま下半身不随の身体で生きていくことになるのか・・・

    頭では分かっていても、現実を受け入れることができない時期が確かにありました。

    平日は処置や1日に2回のリハビリ訓練の日課もあり、それなりに朝から夕方までざわざわする時間を送りますが、問題は日曜や祝日です。

    土日は処置も、リハビリもありませんので土曜の午後から月曜の朝までやることがありません。

    車イスを自分でこいでリハビリ室へ自由に行けるようになった状態ではもうベッドの上でずっと寝ていると考えなくても良いことばかり頭によぎります。

    自由な時間が身体障害者になってしまった将来を悲観させはじめました。

    悲観していても何にも変わらないしクヨクヨしても仕方がないのですが、この身体と一生付き合っていくと気持ちが決まるまでは出来なくなったことばかり考えていました。

    17歳の脊髄損傷デビューで感じた将来へに不安と30年後の今

    17歳というまこと青春を謳歌できる年齢で事故を起こした僕は入院中に色々と途方に暮れ将来に悲観していた、その不安の数々を晒し30年経過した現在を比較してみます。

    彼女ができないかも?


    結果

    何百人とはならないが数人ほどの奥方さまと浮世を流すことが叶いました。

    これまでお世話いただいた方々にはお礼の言葉もありません。

    感謝しています。

    結婚できないかも?


    結果

    おかげさまで二度目の結婚を経験させていただき現在進行中でございます。

    今の奥方さまは多少頑固で、気難しいところもありますがまあそれなりにと申しましょうか?なんとかやらせて頂いております。

    オートバイにはもう乗れない?


    結果

    サイドカーではありますが、オートバイとライダーの環境で生きております。

    フェリーに乗ってツーリングにも出かけました。

    一度目はオートバイを制作してもらった宮崎県都城市の甲斐モータースの甲斐さんに合うため九州指宿をツーリングしました。

    二度目のフェリーは高知県に済む友達に会うためにフェリーに乗りました。

    もう脊髄損傷の身体になってしまって何にもできないのか?人生楽しいことなんてもう経験できない!


    結果

    色々とできることはたくさんあります。

    辛いこともありますが、楽しいことだってあります。

    さっきのサイドカーでオートバイツーリングはいささか極端な事例ですが、下記に僕が取り組んだことやチャレンジしてきたことを取りあげて見ましょう。

    もし嘘だ!捏造だ!と仰るなら京都府まで出向いてきて貰えば証拠写真や資料などをお見せします。

    それ以外にも是非、エピソードを聞きたいという僕に勇気づけられたいという殊勝な方がもし万一おられましたら喜んで対応させていただきます。

    (交通費はあなたさま負担となります、ご了承ください)

    僕が30年間の脊髄損傷人生で経験したこと。

    • 水泳
    • 温泉旅行や日帰り温泉の入浴
    • ライブハウスでのギター弾き語り演奏と出演
    • 車椅子フェンシングで世界選手権出場とアジア大会出場(2010年開催)
    • 柴犬とお散歩(まめちゃんという名前で飼っています。)
    • ワンボックスカー(トヨタデリボーイ)を移動販売車に改造して自家焙煎珈琲(コーヒー)のカフェを開業してイベントに出店。

    などなどその気になれば車椅子であっても脊髄損傷であっても出来ることは沢山あります。

    もし、ただいまこの記事をお読みで深い淵に沈んでおられる方がどんな状況かは分かりませんが人生を楽しむことは十分に可能です。

    どうか悲観なさらずに好きなこと興味のありことを大事に育てて頂けたらと思います。

    2 件のコメント

  • 2018年7月上旬、友人がツーリング中に転倒してしまい、現在、脊損による障害を乗り越えるべくリハビリテーションにて日々リハビリに励んでいます。入院中の彼に何かしてあげられることは何か無いか、と考え調べていたところazuhikoさんの記事に辿り着きました。
    友人は27歳で”まだまだこれからなのにこの先どうなるんだろう”と、本人はもちろん、私もかなり不安でした。そんな時に17歳で事故をされ、30年間様々な経験をされていらっしゃるazuhikoさんのお話を読み、少し気持ちが楽になりました。(怪我した本人ではありませんが、、)
    今はまだ現実を受け止めようとしている真っ只中にいることと思います。無理に色々と興味を持たせようとしたり、勧めたりするつもりはありませんが、日々状況は変化し、良くなっているようです。落ち着いてきたらazuhikoさんのお話をしたいな、と思います。

    • はじまして。

      管理人のazuhikoと申します。

      このたびはコメントと記事をお読みいただきありがとうございます。

      脊髄損傷の怪我を負ってしまわれたご友人を
      お気遣いするゆりなさまのお気持ちお察しします。

      また怪我されたご友人さまも大変な時だと思います。

      オートバイで事故されたとの事で自分の事のように感じてしまいます。

      ゆりなさまが仰るように、いまは時間が必要な時だと思います。

      擦り傷でも突然治ることがないように
      心の持ち方が変わり、状況を受け止めていくにも時間がかかるものです。

      でも、気持ちが切り替わってしまえば
      それほど苦ではないことも確かです。

      と、偉そうに言うぼくがじゃあ100パー吹っ切れているのかと言うと自信はありません。

      でも死にたいのかと言うとイヤですし生きていたいです。

      チャーシュー麺が食いたいけどラーメン並でそこそこ満足してる感じですかね?

      本当なら歩いて移動したいけど、車イスを使えば何ら変わらずに移動できるし、まあええかと。

      そんな感じで生きています。

      大変なことも確かにございますが、気持ちが出来上がってしまえば徐々に環境(障害に)に対応できるようになるのも時間の問題です。

      どうか悲観なさらずに、ご自分と将来を信じて頂きたいと思います。

      取り留めない内容のブログで恥ずかいかぎりですが、少しでもお役に立てたのであれば嬉しく思います。

      お忙しいところコメントを寄せて頂きありがとうございました。

      もし、何か障害のことで気がかりな事があれば尋ねてきて下さい。

      ご友人さまの快復を願っています。

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    ABOUTこの記事をかいた人


    京都府出身

    1986年6月オートバイ事故で脊髄を損傷し下半身不随の障害者となる。
    再びオートバイに乗りたい衝動を抑えられず手動装置でギヤチェンジとリヤブレーキを操作できるように改造したサイドカー付きカワサキエリミネーター250に乗り20年以上経過。
    走り屋(死語)時代にケニーロバーツや片山敬済選手に憧れたオートバイレース世界GPの夢を車いすフェンシング世界選手権出場で叶えた。
    40代を過ぎるまで産業機器生産の会社勤めだったがいつ死ぬのか分からない人生でこのまま社畜として人生終わるのかと思うといてもたってもいられなくなりやりたかった「自家焙煎珈琲の移動カフェ」を開業。
    しかし焙煎機の盗難に遭いアルバイト生活に転落。 経済的不安を改善するためにネットビジネスと株式投資に取り組む。
    「やりたい」と思ったことは実行に移さなければ気が済まない傾向を持つ。 ちなみに菊池桃子さん、鈴木京香さんと同い年の1968年生まれ。