2022年6月を目前に控えオートバイ事故による脊髄損傷の車いす人生は37年目を迎えます。
交通事故で下半身不随・・・
「人生終わり」
「死んだ方がマシ」
「絶望」
事故を起こしたばかりの入院中はこんな気持ちを抱え車いす人生の将来に希望なんて持てませんでした。
さてそんなネガティブなイメージでスタートした車いす人生でしたが【オートバイが好き】を大切にしてきました。
その結果サイドカーではあるけれど再びオートバイに乗ることができたり世界GPオートバイレースに憧れていた気持ちがあったからこそ車いすフェンシングに出会い世界選手権へ挑戦する機会が得られました。
オートバイへの気持ちを持ち続けたからこそいろいろな経験につながり人生が意味のあるものとなりました。
障害を持つ原因になったオートバイ事故でしたが結局はオートバイがぼくを幸せにしてくれました。
当事者として言えるのは【たかがバイクされどバイク】です。
今回の記事は【好きを大事にした生き方】の根源になったオートバイとの出会いと当時の80年代オートバイや関連作品を振り返りまとめておきます。
オートバイに興味を持つキッカケと関連作品
バイクに興味を持ったのは中学1年生だった80年代初めごろです。
直接のキッカケは親戚のお兄さんが原付スクーターに乗って家に遊びにきたことが始まりでした。
そのキッカケがあり当時の漫画や映画に触れてさらに興味を深めていった感じです。
レーサーと呼ばれるタミヤのプラモデル作りにもハマりました。
では当時どんなオートバイ関連の漫画や映画などから影響を受けたのか当時を振り返ってみます。
- 街道レーサーGOを読んでヤマハRZにビビッときた
週刊漫画雑誌の少年ジャンプに連載されていた【街道レーサーGO】は大人気オートバイ漫画のバリバリ伝説より少し前です。
街道レーサーGOを読んだキッカケでヤマハのオートバイ【RZ350】を知ります。
マンガの主人公がRZ350の初期型に乗りストーリーは展開されていきます。
作者はサーキットの狼を描いた漫画家池沢さとし氏。
昭和の不良マンガにありがちなエッセンスを取り入れながら無茶苦茶な展開のバイク漫画ですね。
アマゾンのKindle本で読み返す機会があり何十年ぶりに本作品に触れてみましたけれどかなりのクソストーリに仕上がってます。
ネタばれで恐縮ですが主人公が入学する高校の女性教師とバイクで走りに出かけた峠道で○○○を迫り先生も一度だけよと身体を許してしまう当時中学生だった少年には刺激的な場面が描かれています。
さらに峠道の走行場面では走り屋同士の競り合いでノーヘルでバトルをする描写があるなどツッコミどころ満載のストーリーです。
ほぼ同時期に連載される少年マガジンに登場の【あいつとララバイ】でも主人公【研二】が乗るカワサキのZⅡをノーヘルでぶんぶん走らせてました。
さてこの時代のノーヘルといえば思い出せるエピソードに原付はヘルメット着用の義務化ではなかったです。
街道レーサーGOやあいつとララバイではコンプライアンスでガチガチに固められた現在において貴重な描写が満載の80年代バイク漫です。
街道レーサーGOの発表から2年後の1983年に正統派?オートバイ漫画のバリバリ伝説が登場します。
こちらのバリバリ伝説はかなり人気になった作品なので影響を受けた方も多いと思われます。
けれど僕にとってはバリバリ伝説よりもヤマハRZに出会った【街道レーサーGO】が貴重な作品となってます。
映画【蘇るヒーロー片山敬済】はもはやバイブル
※写真はこちらからお借りしました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13148731478
中学を卒業して間もない1984年8月に現役レーシングライダーを取り上げたドキュメンタリー映画【蘇るヒーロー片山敬済】が公開されます。
この映画こそが人生に影響を与えたと言える作品となります。
映画の構成はホンダに所属する片山敬済選手がレース中のケガから世界GPに復帰する様子が描かれます。
当時イギリスのレーシングライダーであるバリーシーンを主人公にした【ザ・ライダー】との2本立てで上映されます。
YouTubeで蘇るヒーロー片山敬済を全編観ることができます。
映画蘇るヒーロー片山敬済ではレースの生々しい映像を捉えています。
若い10代だった自分にオートバイレースをやってみたい!と思わせる映画でした。
この映画で見た映像がずっと頭に残像として残り続け世界選手権への憧れとなり車いすフェンシングへとつながります。
80年代に触れた思い出のオートバイ
では多感な10代を送った時期、実車に触れた思い入れあるオートバイを説明していきます。
まずははじめて乗ったヤマハの原付スクーター【サリアン】です。
- ヤマハ サリアン50(CA50E)
サリアンに乗った経緯は親戚のお兄ちゃんがぼくの父親に会うため販売されたばかりの新車のサリアンに乗りやってきました。
実はお兄さんはヤマハのパッソルに乗っていたが盗難に遭いサリアンに買い替えていました。
お兄ちゃんは中学1年の僕にサリアンに乗って遊んでええでと言いお父ちゃんとパチンコに行ってしまいました。
あとはご想像にお任せします。
ヤマハパッソル50
サリアンに乗り替えたお兄さんでしたがが盗難にあったパッソルが無事発見され戻ってきたとの連絡がありました。
もうすでにサリアンがあるお兄さんは僕に「やるわ」とプレゼントしてくれた。
あとはご想像にお任せします。
しかし無知な中学生は2ストロークエンジンを積んだパッソルに2スト用エンジンオイルを補充しなければならないという基本的なことを知らなかったのです。
そしてパッソルはエンジンを焼き付かせてしまいます。
エンジンを掛けようとしてもなぜキックが降りないのかも分からない途方に暮れる中学生時代でした。
さてパッソルはどんなにアクセルをひねっても最高速度30キロくらいだった。
そしてパッソルはやがてパッソーラやジョグへと進化していきます。
まあこんな感じでパッソルははじめて所有した胸がきゅんきゅんする思い出のスクーターです。
ヤマハ DT50
DT50の思い出は16歳となり原付免許を取得した僕は金型の製作工場に就職しお金を貯めて購入したオートバイ。
購入した店舗はカスノモーターサイクル。
こちらのお店で購入した経緯は就職した工場のお隣で同じく金属加工会社で働いていたお兄さんがYAMAHAXJ400Z-Sをカスノモーターサイクルで購入し乗っていた。
いろいろと話をするうちに仲良くなりカスノモーターサイクルさんを紹介してもらうことになった。
DT50を購入した目的はオンロードの峠道を走るよりオフロード走行をやりたかったから。
当時はスーパークロスというレースが流行っていてボブハンナやリックジョンソンとか現役レーシングライダーが憧れの存在でした。
近所に流れる宇治川に非公式の河川敷コースがあり毎週のようにDT50で走りに行きました。
サイクルサウンズやライディングスポーツなどのバイク雑誌で見るコーナリングフォームをマネしてカウンターとか後輪スライドなんかを必死で練習してました。
しかしコーナリングで転倒してしまいラジエターパイプの根元を破損させてしまいます。
DT50を修理に持ち込んだバイク屋さんにでDT50はモトクロスっぽい車両デザインを持ってはいるが本気のモトクロス走行が可能な設計ではないと教わります。
こうした経緯でDT50では本格オフロード走行はできないと知りコンペティションモデルの購入を検討することになります。
オフロードを諦めたDTでオンロードに転向しコーナーを攻める楽しさを知りました。
コーナリングはもちろんハングオンです。
タイヤは標準のブロックタイヤのままでしたが意外にイケたんですよね。
こんな甘酸っぱい思い出を作ってくれたDT君は大亀谷の打ちっぱなしゴルフ練習場の坂道頂上付近の道路で自動車と正面からぶつかりフロントフォークが大破。
DT君は廃車となってしまった。
- YAMAHADT50のスペック
2ストロークエンジンのピストンリードバルブ搭載の排気量50ccながら7.2馬力を誇るエンジン性能でキビキビとした乗り味を発揮した。
スピード規制のため電子的に60キロ以上のスピードが出ないようにリミッターが働く構造になっていた。
もちろんリミッター解除するレブブースターと呼ばれる社外品配線商品がありコレを配線コネクタに接続するだけで90キロまでスピードが上がった。
ちなみに同クラスの車両でホンダのMTX50ならば6.5馬力となっていた。
ヤマハ YZ80コンペティションモデル
ラジエターの破損でDTが本格的オフロード走行が出来ないバイクである事が分かった僕はヤンキー先輩が持っていた本格的競技車両のYZ80を手に入れるチャンスに恵まれた。
不思議だけど「欲しいなー」と考え始めた矢先に友達の先輩から誰かYZ買うヤツおらんか?という話が自然にやってきた。
確か7万円ほどで譲ってもらった記憶。
YZを手に入れてからは毎週末河川敷までYZを押し非公式モトクロスコースでジャンプとコーナリングに挑戦した。
練習に行く前日の土曜に灯油タンクでガソリンを買いに行きカストロールで混合ガソリンを用意していた。
しかしこのバイクがなかなかのオンボロでラジエターからの冷却水漏れとストロークの足りないフロントフォークに悩まされた。
この所有していたYZ80は正確な年式は認識しておらず自分が16歳の後半あたりに購入しているのでおそらく81年〜83年式の車両だったと思う。
特徴はゼッケンの裏側にラジエターが配置される構造だった。
エンジンはピーキーでめちゃくちゃ速かった。
ヤマハRZ250Rおにぎりテール最終型
中学1年に街道レーサーGO!を読みRZに強烈な印象を持ったキッカケ以降、RZに乗りたい!の気持ちを持ち続けた。
金型製造の工場に勤めた2年目に定時制高校に通うツレ(友達)に勧められ定時制高校を受験しめでたく2年遅れで高校生となった1986年春過ぎに念願のRZを購入した。
もちろん購入したオートバイ屋さんはカスノモーターサイクル。
全力ローンでオニギリテール最終型である機種コード1ARとされるRZ250Rを購入。
めちゃくちゃ嬉しかった。
ブルーのRZに合わせヘルメットをSHOEIヘルメットのTASK-FIVEブルーと今はもう存在しないバイクウェアブランド【Takai】のブーツを購入。
定時制終わりに嬉しくて夜な夜な走り回った。
1985年当時の250ccオートバイでは最大出力は45馬力となっておりRZはTZRと同様にフルパワーエンジンを搭載していた。
フルカウリングで登場したTZR250は17インチを採用したタイヤサイズのため小ぶりな車体の印象だったが旧型となるRZでは前後18インチサイズのホイールを装備した大柄な車体とノーマルマフラーでありながらレーシーな排気音を持っていた。
当時周りの走り屋友達にはHONDAのNS250Fや発売されたばかりのTZR250初期型にスズキのΓ(ガンマ)250 など80年代を代表する名車達と共に時間を過ごした。
新登場のTZR以降レーシングマシンレプリカの世界に突入しRZは入門的なお手軽2ストマシンと位置づけされてしまう。
しかしRZの持つ2ストらしさと雰囲気はTZRを凌ぐもので全然入門的とは思えないしその排気音はまさしくYAMAHAのレーシングマシンYZR500そのもの。(言い過ぎか?)
憧れだったRZでガンガンと峠道を走り込んで行こうとする矢先にRZは納車後1週間ほどで廃車となった。
RZで滋賀県花折峠を走行中に転倒
有頂天だった僕はなまじモトクロスの経験があり自信過剰になっていた。
DT50でコーナーを攻める走りでツレの中でもそこそこ速い方だという自惚れもあった。
はっきり言ってバカだった。
死んでもおかしくなかった。
事故を起こした日はちょうど定時制に行きながらアルバイトで働いていたケンタッキーフライドチキンの勤務がなく夕方の登校まで時間があった。
前日から峠道を走りに行くことを決めワクワクして一睡もできなかったことを今でもはっきり覚えている。
確か出発する前に全日制高校に通う友達の家によってから滋賀県方面へ出かけた。
最初から花折峠を目的地にしていたワケではなく成り行きで走っているうちに花折峠を目指すことになった。
適当な流れで花折峠に到着しそこそこ走った頃には定時制の登校時間が迫っていることに気づき帰路に着くことにした。
しかしやや急がないと学校に遅れそうな気持ちを持ってしまったことも災いした。
スピードを上げ始めたタイミングでカーブが迫ってきた。
そのコーナーにはオートバイ乗りと思われるギャラリーが僕のRZのコーナリングを見つめていた。
帰宅を急ぐ気持ちでコーナーに突っ込んだ僕は気づいたらアスファルトの上で動かせない身体で横たわっていた。
幸いにも見物人の前で転倒したことですぐに救急車を手配してもらえた。
動かせない身体になってしまった自分の怪我よりも廃車になったオートバイの方が気になって仕方がなかった。
この転倒で僕は一生歩けない立てない身体になってしまった。
つまり下半身不随の脊髄損傷の障害を負うことになってしまう。
そんな入院中の病院で知り合った同年代の友達がRZに乗り会いにきてくれた。
自分が乗っているハズだったRZを目の前にして半身不随の体になったことを思い知ることになり好意を寄せていた看護婦さんの前で怪我をしてから初めて泣いてしまった。
両足が動かない下半身不随の身体でオートバイに乗りたい
- カワサキ 87年式エリミネーター250
入院していた病院で両脚の自由を失ってもオートバイに乗れる方法は無いものかと考えた末に思い付いたのがサイドカー。
両手だけで運転出来るように改造すればまたオートバイに乗れるのではと考えた。
その思い付きから8年程が経過し社会復帰した頃に実行に温めていた計画を実行した。
もちろん時間はそれなりにかかったし前例がない壁もあった。
でも本気でサイドカー付きオートバイに乗りたいと考えていたので突き進んだ。
そうして手に入れたサイドカー付きの車両がカワサキのエリミネーター250。
バイクで怪我をして障害者になりある意味、人生を棒に振ったような事になったけれど大好きだったオートバイに乗ることが自分にとっての社会復帰と捉えていた。
バイク事故で脊髄損傷になってしまったのは自分の責任だが自分の事故のせいでバイクはやはり危険な乗り物だと世間に決めつけられるのも嫌だった。
オートバイに対してもオートバイに乗る人達にも申し訳ない気持ちもあった。
でも今考えるとそれも詭弁かもしれない。
要するに僕はオートバイが好きだったのだ。
エリミネーターのサイドカーを手にれてからは一人で長距離ツーリングに出かけた。
フェリーに乗って宮崎や高知など走破?した。
けれど片山さんの映画に憧れたオートバイレースやRZでカリカリにコーナリングを攻めるようなオートバイの楽しみ方はできなくなったし何処か物足りない気持ちを抱えていた。
つまりレースへの憧れが気持ちの中でくすぶりす続けていた。
そんな得体のしれないモヤモヤの原因がハッキリわかったのは車いすフェンシングに出会ったことだった。
レースへの憧れをくすぶり続け車いすフェンシングに出会った
病院を退院した以降はリハビリ訓練施設へ入所し職業訓練校を経て社会復帰も達成した。
大好きだったオートバイにも乗れるようになった。
結婚もした。
友達にも恵まれた。
褥瘡などにも悩まされた車い生活だったがほぼ順調だった。
しかしなぜか気持ちは満たされなかった。
けれど車いすマラソンや車いすバスケなど誘われて少し練習してみたが全く夢中になれなかった。
興味が持てなかった。
そんな矢先に車いすフェンシングに誘われる機会があった。
深く考えずに練習を見学して体験してみた。
剣のやりとりのスピード感にオートバイレースの要素を感じた。
一気にのめり込んだ。
初めて参戦したハンガリー世界選手権で映画【蘇るヒーロー片山敬済】で観た映像のワンシーンが脳裏に蘇った「求めていた世界はこれだ!」と感じた瞬間だった。
初めて遠征したハンガリー世界選手権で予選プールで対戦したウクライナ選手。
(背中を向けている方がウクライナ選手)
もちろん自分と同じ脊髄損傷の障害者であり車いすユーザー。
車いすでの避難生活は想像できないほど大変だと思う。 pic.twitter.com/lzOMfMdxP8
— yasuuui【脊損36年目】 (@azuhiko68) March 21, 2022
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僕が作った「あの頃はよかった♪」動画です。
すごく共感していただけると思います。
どんちゃんさま
初めまして管理人のヤスイと申します。
コメントとご訪問いただきましてありがとうございます。
システムの判定でスパムへ振り分けていた関係でお返事が遅くなってしまいました。
申し訳ございません。
動画拝見させていただきますね!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。